この半年くらいの間に、自分的にはかなり激動、というか、人間関係のことでさまざまな事件が起きた。たぶんこの波はひとまず収束したと思うけれど、これらの出来事は僕の考え方のある部分を根本的に変えたと思う。
簡単にいうと、何年も前から近しい・親しい存在である、と思っていた人たちから、目を疑い、耳を疑うような扱いを受け、ちょっと人間不信に陥りそうになったという・・ハハハ笑
でもその振る舞いこそが、その人の本性、本当の姿だったのだ。
その詳細をこのブログで開陳することはもちろんできないのだが、そこで得た教訓めいたもの・・がこの記事タイトルにあるように、「人は人に救われ、また奈落に堕とされる」ということだった。
要は、かりそめの仮面をその人の素顔だと思い込んできてしまった、僕自身の浅はかさが露呈するきっかけであったわけだ。そういったことが、この短期間に何度か起きて、まず自分の人を見る目の無さっぷりを痛感し、また、人というのは思ってたよりも恐ろしい存在なんだということを思い知ったのだ。
なんでこんなことになってしまったんだ?
考えずにはいられなかった。
思索を重ねていくなかで、思い当たったことがある。そういう人たちとの過去のコミュニケーションを振り返るなかで、「あれ、何か変だぞ?」というシグナルは時折見え隠れしていた・・ということに。
・・そうだ。
だが、その時の僕は自分の勘を信じようとせず、ほとんどすべて見て見ぬふりをしてきた。
何故?
そうだな・・この見て見ぬふりは、率直に言って、「自分を護るため」であったと思う。
信じられない現実に直面してしまうことで自らが負ってしまうダメージから、身を護ろうという本能が働きかけた防衛策。
だけど。
これまで通りの世界のままだったら、それも通用し続けたかもしれない。
だが、この3年にも渡るコロナ禍は、世界の人々はもちろん、僕と僕を取り巻く人たちすべてを何かしら変えたと思う。
それを境に。
誤解を恐れずに言葉にするなら、彼らは自分の本性を隠すことができなくなり、もしくは隠そうとはしなくなり、一方僕は、真実・本質というものをより求めるようになった、ということだろうと思う。
暴かれたくない、見透かされたくない。
俺を、私をバカにしているのか?
真実など、不要だ。
そこで互いが対峙するならば、避けようもなく、目に見えぬ「分断」のミゾが双方の間には横たわる。それぞれの「生き方」というものの根幹に、見えない負荷がかけられたためにそれは起きた。
そういう変化は、僕自身が望んだことでもあるとはいえ、それはそれでやはり相当なダメージを負うことにつながった。
けれど、今の自分ならばそれに耐えうるだけの体力があるとも思えていた。
なぜなら、ひどい扱いをされるなかにも、救いとなる人たちがいてくれたから。
その救いは、僕が自分自身を肯定し、高めることにつなげてくれた。そして、自分が間違っていないのだという確信を得るきっかけになった。
そういう縁となってくださった方々は、それこそ僕にとって、メシア(救世主)のような存在。
付き合いの長い、短いは関係なかった。
この困難に、たった一人で立ち向かわなくてはならなかったとしたら、きっと立ち行かなくなっていたに違いない。
精神的な気高さ、言葉と行動の一致、他者への興味・敬意。
そういたものが、きちんと備わっている人たち。
自分軸があり、それがブレないからこその強さ。
僕自身の光と闇の闘いはそういう人々の助けもあって、なんとか、決着をつけることができた。
光は影を作る。
どちらか一方では存在しえず、やはりそれは表裏一体なのであった。
自分の弱さを知り、自分を心から信じること。
そういう気づきを得たのだ。
だからもうこの先僕は、自分を疑うことはないだろう。
ある意味で、
勇者かのるすの冒険は、知らず知らずのうち、僕自身に起きていたことだったのだ。
そのことにあとから気が付き、思わず苦笑いをしてしまった。