「じゃがりこ」デザインに見る、ムダこそが秘めるパワー

僕は「じゃがりこ」というお菓子が好きである。
あなたも一度は食べたことがあるのではないだろうか?

定番はやはり、サラダ味。
味が好きなのは言うまでもないのだが、カップサイズの容器はクルマのドリンクホルダーにもスッと収まり、僕はお出かけのお供として、必ずと言っていいほど、行きのコンビニエンスストアで仕入れていると思う。それも、無意識に(これはこれでメーカーのしてやったり・・)。

コーヒーにも合うし、夜にはビールのお供にも。
僕にとって、万能なスナック菓子、という位置づけである。

しかし、そういう素晴らしい点を横に置いておいたとしても、よりフォーカスしてしまうのが、パッケージのデザインである。見れば見るほど、「?」が湧いてくるデザイン。

「食べだしたらキリンがない」
というこれまたベタすぎる駄洒落は、95年の本製品誕生以来、燻し銀のようにクレジットされ続けているし(多分)、ちょいちょい色んなものがその時々で加筆&削除されている。
キリンのキャラだけでなく、うさぎ(のようなキャラ)が食べていたりと一貫性がない。
レジでスキャンするバーコードも動物のデザインがあしらわれ、相当にふざけている(ちゃんとレジで読めるようにはなっている)。

毎度毎度その不思議なデザインに振り回されっぱなしだったのだが、今回、上の写真のパッケージを見て僕は「?!」となった。おわかりになるだろうか?

そう、見たこともないQRコード(らしきもの)が印刷されているのだ。
どうにも気になった僕はスマートフォンを取り出し、カメラで読み込めないかやってみた。思ったとおり・・、読めない!読めるわけない・・。
それどころか、カメラはこのコードをスルーし、隣に書いている「エネルギー、たんぱく質」の表示のほうにピントを合わせようとする。一体、これはどういうワケだ?

もしかするとこれをよく見ていると何かメッセージが見えてくるのではないか・・?
しばらく見つめていたが、何も読み取れない。製品の「いつものサイズよりロングでラージ」を体現した縦長のQRコード、ということなのか?ヒントもなくてわからない・・。うーむ・・。

そしてついに、僕はとある表示に気が付いたのだった。

「※写真・イラストはイメージです。」

という一言に・・。

なんということだろう。このふざけまくった、ムダばかり(と思われる)のデザインは、この一言によって浄化されているのである。だが、これは相当に強力なエクスキューズである。

昔、テレビ製品の広告の隅に小さく書いてあった「※画面はハメコミ合成です」を思い出す。
疑似ならやらなきゃいいのに・・とその時は思っていた。いや、今も思っているな笑

話をじゃがりこに戻す。

「写真・イラストはイメージです。」

イメージ??

一体何のイメージなんだ?

そもそも「イメージ」とはどういう意味なのだろう?

心像/しんぞう
image

一般的には,外界の刺激対象なしに,つまり感覚器官に刺激作用が与えられることなしに再現された感覚的体験ないしは映のこと。この意味では表象とほぼ同義。種々の感覚様相に応じて視覚心像,聴覚心像,触覚心像がある。一般に,現前した刺激対象に基づいて生じる知覚体験より具体性に欠けて不鮮明かつ不安定であるが,幻覚の場合のように知覚像と区別しえないこともある。 (2) より抽象的には,思考作用の過程で再現された,ないしはその過程を支持している具体的意識内容を意味し,象徴機能の一つの側面を示す。観念とほぼ同義。 (3) 事物事象に対して人のもつ包括的な概念,判断,嗜好態度などの印象の全体をさす。この場合特にイメージという用語が多く用いられる。

コトバンクより引用

僕は哲学書を読んでいるのだろうか?
これを読んでイメージ(心像)の意味について「なるほど!」と思える人はどれだけいるのだろう?
ともあれ、一方的に解釈させてもらうなら、「じゃがりこを作っている人側のもっている、または込めたかった嗜好」ということになるのであろうか?

日本ほど、意味を持たせた広告や派手な謳い文句が多い国はないと思う。
それゆえ、あちこちに案内が多くなってしまい、互いに邪魔をし、見てもらえないというジレンマがある。お店の中も、道路もみんなそういうもので溢れかえっている。黄と赤。
景観のきれいな観光地でもベタベタと案内が出されていて、景観そのものを愉しめない、といったことが往々にして起きている・・。
大事なのは足し算よりも、引き算なのである・・。おっとまた話が逸れた。

アイスランド、スコーガフォスの滝。案内は何も出ていないけど、不用意に近づくとどうなるかわかるよね

だが、じゃがりこのパッケージのデザインについては、その多くが意味を持たず、どこにも行きつけなくてよい、と作り手が思っているように僕には感じられる。いや、このどこにも行きつけない、ふわっとした、なんじゃそれ、クスッ(笑い)が作り出す「リラックスタイム」。

これこそが、じゃがりこ開発者たちが込めたかった「イメージ」なのではないか、と。

そして、ムダを大々的にフィーチャーすることで、今僕らが生きているこの世界の「効率化」ばかりが重んじられる風潮にたいして、「NO」というスタンスを表明しているのではないか・・。

そこまで考えが及んだ時、「カルビーさん、恐るべし」と思ってしまったのである。
(考えすぎじゃない?というご意見はあるでしょうが・・)

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話は少し、じゃがりこから変わって・・。

今、何かとネットという隠れ蓑を通して「叩かれる」時代である。
CMなんかでも少々作りに気になる部分があると全体が否定され、そのCMはお蔵入りにさせられる、というような話は日常茶飯事。そう、炎上というやつ。
悪意を持って作られるCMはそうはないはずなのだが、(顔を見せない)一部の声が、いつの間にやら自らを「みんなの意見」に仕立てて全体を動かす力をもち、その力を相手に行使する。そうやって作り手は委縮させられる。

僕が思うに、ほとんどの人は「モノ言わぬ人たち」だろうし、そういう人は何かに「おや?」と思って身近な人にそれを多少話したとしても、いちいち本家に対して苦情を言い立てることもないし、そもそも、そんなヒマなどない。

だからこういうことを専門的に行っている「職人」がいるのだろうと想像する(イヤな職人だが)。
とるに足りない苦情ですら、ネットの拡散力でアンプリファイして「悪目立ち」させ、それがさも世論のような顔をするように仕立てるプロ(集団)だ。

こういった苦情に対し、企業側は自社のイメージ(ここでもでてきた)を守るために、CMを取り下げて、なおかつ頭も下げるという姿勢がもはや当たり前となっている。面倒は避けたい、という思いもあるのだろう。
だが、こういう対応を良しとし、常態化させてしまったことで、どこか別の企業が毅然とした態度で「このCMに悪意はありませんのでこのまま使います」などと言おうものなら、余計に職人魂を燃え上がらせてしまうようになったのも確かなのではないか。

「不買運動」というのは、もともとそこの会社の製品を買っていなかった人が大半を占めて起こすものじゃないだろうか?
じゃがりこに不買運動が起きたとして、商品自体に欠陥が無いのなら僕は買い続けるだろう。当たり前に。「ファン」とは「推し」を守る存在なのじゃないだろうか?

企業のCMといったものも含め、「作品」にはそれなりの投資と努力、情熱が込められていると思う。それがどんなにつまらないものであっても、だ。
だから、簡単にそれを取り下げる、というのは非常に表現の自由にとって危うい行動で、ナンセンス、それならば最初から作らなければよいのにと僕は思ってしまう。(炎上商法というのがあるが、これもまた困った存在だと思う)

「屈する」
この言葉を、僕は重く受け止めている。
一度の撤退は、二度目を容認するだろうから。

苦情職人たちは悪意だけでなく(本気で悪意をもっていない人もいる、かな)、自分なりの正義を持っている人間も多いのだろう。「我が正義」を相手に認めさせることにひとたび成功するや、なんとも言えない自己肯定感、陶酔感に浸ることになるのではないか。人をひれ伏させることというのは、なにしろ快感が伴うのである。自らが顔を見せて勝負する場においては「負け組(こういう言葉はあまり好きではないが)」となっている場合はなおさら・・。

・・話が広がってしまったのでこのくらいにしておこう。
うん、やっぱりじゃがりこは旨い。飽きないんだよなあ。
そして、カルビーさんにはじゃがりこ開発部門にこれまで通り、自由にやらせてやってほしいと老婆心ながら思うのであった。

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