拘(こだわ)りを捨てる、とは

ここしばらく続いていたマイ断捨離ブーム(?)
ようやく終わりが見えてきた。かな?
目に見えてスペースの余白ができたというか、居心地がすこぶる良くなった気がする。

この作業にめどがついてきたところでまた、新たな心情が芽生えてきた。それは、

これからはいい意味で、こだわりを捨てよう、ということ。

「こだわる」というのは一般的にいい意味の言葉のようでいて、実は否定的な意味合いを持つ言葉である・・というのをどこかで読んだことがあり調べると、やはり、

気にしなくてもいいようなことが心にかかる。 気持ちがとらわれる

という意味だそうだ

何かを手に入れ、大事にしようと次々と抱えこんでいくわけだけど、実は自分の中にはキャパシティがある。そのキャパを超えると知らないところで、古い「大事なもの」は相当大事でない限り、別の新しいものと入れ替わって大事にされなくなってしまう。
それ自体は悪いことじゃない。
でも、それをそのままにしてしまう、見て見ぬふりをするからよくない。
自分の真意に気づいてしまったなら一度立ち止まり、自分の中で判断し、区切りをつける作業が大事なのだろう。
人生は選択の連続・・とはいえ、自分の本心から目を背け続けた結果、今回のような大断捨離が必要な事態が起きてしまったのだった。

モノを持つということは、気がかりが増えることでもあると言い換えることができないか。
だから、極力少ないほうがいいといえばいい。今回を機に身も心も身軽になったので、これを自分のキャパの基準ということにして、シンプルに暮らしていこうと思った。

そしてこのことは、モノを人に置き換えても結構当てはまる気もする。

たとえば、互いに敬意をもって接することができない人間関係というのは不幸であり、改善の余地がないのなら見直されてしかるべきだ。っていうか早く捨てないとならない。

仮に両者が同じ社会的立場であるならば、まだ被害は少ないのかもしれないが、どちらか一方が弱い場合などは非常に厄介だ。上司や社長だからと言って僕が見る限り、真に立派な人間なんてほとんど出会ったことがない(残念なことに)。
一見、公平な判断をしているようにみえて、実は個人的な好き嫌いで相手を判断しているのが普通。それをうまく隠しているだけだ。

これまで、そういうどうにもならない部分に対し、挑み続けた自分がいた。
本来、そういう気をかけなくてもいいことに「こだわ」って来てしまったのだ。
「捕らわれる」と同義である。今思えば、本当にクダらないことだ。それ自体は失策と言えるだろう。

人には高尚なことを言いながら、自分を棚に上げすぎている人々が美しいオーラを纏うことはない。相手によって態度をコロコロ変え、うわべを繕う人間が尊敬に値するわけがない。

いわば、どうしようもないガラクタに、それでも価値を見出そうと努力してしまった徒労。
それは「見る目を養う」というには、充分すぎる苦行・苦痛だった。

ようやくこの、負の荒行は終わり。

今回僕に起きた断捨離の流れこそ。
これは自分の中の抱え込んできた苦難や我慢をすべて一度手放す大事な導きとなったと言える。

これからは身軽に、自分の気にかけたい大事なことだけを、愉しくやっていく。

そういう、シンプルな答えに行き着いた。
まるで悟りみたいじゃないか。

視界良好!!/スコットランド、オークニーメインランド島にて

オークニー島といえば最近、イギリス・スコットランドから離脱したいという動きがある模様。本国から支援が足りないとのことで。
確かにどちらかというと北欧文化に近い(ヴァイキングの歴史)のでノルウェーと言われてもあんまり違和感がない。
やっぱり大事にされなければ離れるのがいい、かもしれないね笑

英離脱しノルウェー領に? 北端の離島で「独立騒動」

そして!
ついに10000キロもの距離を超え、スペイン・マドリードにあるお店から注文していた例のものが届いた・・!よかった。無事に届いて。いや、まだ開けてみるまではわからないな笑

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