誰かがつらそうにしていたら、助けたい、と思い、行動するのが普通のことだと思っていたが、どうやらそうでもないのだということを最近知る機会があった。
特に、人が多くいるシチュエーションにおいて、「事なかれ」は発動しやすくなるらしかった。けして事態に気が付いていないわけじゃない。
「誰かがやるだろう」「自分には関係のないことだから」「はずかしい」そういう言い訳がいくらでもでてきて、脳内をビュンビュン飛び交うのかもしれない。
かくいう僕もかつて、そういう言い訳を自分にして、見て見ぬふりをしてしまったことがある。
だいぶ前のことだが、満員電車に乗っていて、ようやく降りる時がきた。人が雪崩のようにドアの外へあふれ出す。皆、イライラしながら出口へ向かっていた。
その最中、視線の斜め先に、しゃがみこんだ人が見えた。
通り過ぎざま、若い女性がしゃがみこんだまま嘔吐しているのが見えた。立ち上がれないでいる。
人々はその女性を障害物か何かのように、Y字に避けて歩いていく。
何とかしなければと思った。
でも、人が塊のように、一方向に流れていく。
この流れに逆らうのは・・困難・・と僕は言い訳した。
出口に通じる階段を数段昇りかけて、「やっぱり、それじゃいけない」と踵を返した。
すると、「大丈夫ですか」と声をかけながら、すでに女性を助けようとしている人が数人、彼女を守るように取り囲んでいた。
「よかった」と思った半面、とても自分が恥ずかしい存在に感じられた。
なぜ、自分は何もできなかったのか・・・つまり、「逃げた」のかと。
その後かなり長いあいだ、自問することになった。
この時の経験は非常に苦いものとして今も僕の心に残っている。
何もしない、を「してしまった」のかということ。
もう二度とああいう思いはしたくない。
まてよ。
そう考えると、冒頭に書いた、
「誰かがつらそうにしていたら、助けたい、と思い、行動するのが普通のことだと思っていた」
という自分の言葉は、その経験があったからこその、「普通」なのかもしれない。その「普通」は、他の人にとっては「特異」なこと・・。
ある人から、こう言われたことがある。
「お前の普通が、みんなの普通だと思うなよ」
その人はきっと、僕から「普通でないこと」を押し付けられている、と思ったのだろう。
そんなつもりはなかったが、かくも人間関係というのは難しい。
何も僕自身、反省がないわけじゃない。けれど、やっぱりこれはコミュニケーションをお互いが丁寧に、自発的に、取ろうとしてきたかどうか、ではないかなと思う。
ひいてはそれが、相手に敬意を払っているかどうか、ということにつながる。
みんな、自分の「普通」を持って生きている。それは避けようがないし、悪いことじゃない。
だから、悪気もなく自分の普通を相手に押し付けてしまうシーンというのはどうしてもある。
そういうことがままあることだと知ったうえで、お互いの落としどころを見つけることが人間関係には必要不可欠なのだが、それを面倒に感じて行動せず、相手の悪いところばかりをあげつらいがち、というのがよくあるパターン。
特に、covid19以降、そういう傾向が強くなったように感じる。
人とコミュニケーションをとること自体、億劫になってしまったのかもしれない。
「呑みにケーション」も死語となり、「遊び」の部分が著しく減ったことで人間関係はよりタイトに、軋みの出やすいものになった。
マスクは外しても、見えないマスクを装着しているような感じ。
本音を見せない。見せられない。冗談を云う雰囲気もない。
自分が理解したくないもの=悪、と決めてしまうのは非常にラク、なこと・・。
そうなると余計に面倒ごとには首を突っ込みたくはない、という「事なかれ主義」が横行するようになるのではないか。
この前の出来事はそういう要素が幾分含まれていそうだなと思った次第である。
ともあれ、僕は過去の苦い経験が生きて、幸い今回は真っ先に行動することができた。
そのとき誰も手を貸してはくれなかったし、それに水を差す人もいたくらい。
だけど、僕はまったく意に介さない。
僕は自分に誇りを持って生きたいので、誰が何と言おうと、この「普通」については絶対に貫くと決めている。天は見ているのだ。