氷とARØMと沈黙の客 – BARはかく語りき(第1話)

『……泣くも笑うも、ここでは心の随意のままに、アル』

このストーリーに寄り添うサウンド

◇語り部/公家サン

 夜の風が海から吹き寄せ、ウィスランの港町は一日の余韻に包まれていた。
 入り組んだフィヨルドの奥、石畳の坂を下りた先に、KUGE BARの小さなネオンがともる。

「……今日は、静かアルな」

 店主、公家サンはカウンター奥で一人、氷を刻んでいた。
 氷はウィスラン北部、ヨル川上流の古氷
 刃を入れるたび、微かな音が空間を切り裂く。
 店内にはまだ誰の姿もない。夜八時、いつもなら最初の常連がドアをくぐる時間だったが。

 そんなことを考えていたとき、扉が開いた。

「……こんばんは」

 入ってきたのは若い男。顔に見覚えはない。
 だが、その目の奥に、何か強い揺らぎを感じる──逃げてきた目

「いらっしゃいアル。初めてアルね。
 何を飲むアルか?」

 男は少し迷ったあと、ポケットから何かを取り出した。
 それは一枚の写真。写っているのは、ARØMの蒸留器の前で笑う、年老いた男。

「……この酒を、飲みにきました。父が、愛していた酒です」

 公家サンは写真をちらりと見て、頷いた。
 そして、棚の奥から一本のボトルを取り出した。

「これは特別な仕込みアル。
 “ルナリス ’97”、満月の夜にだけ仕込まれるARØMの15年物。
 エイジングが足りなかったが、最近いい顔をしだしてるアル」

 静かにグラスを差し出す。
 ARØMの蒸気のような香りが、ゆるやかに立ちのぼる。

 男はゆっくり口に運び──そして、泣いた。声も立てずに。

 公家サンはその姿を黙って見ていた。
 カウンターの片隅には、埃をかぶったウッドベースが立てかけてある。

「……泣くも笑うも、ここでは心の随意のままに、アル」

 氷がまたひとつ、グラスの中で沈んだ。

ストーリーメモ:
水曜の舞台は、バーマンの公家サンが営むKUGE BAR。人生の悲喜こもごもが、公家サンの静かな語り口調でゆるやかにほどかれていきます。ウィスランから遥か遠い国・ジヴァングからやってきたとされる公家サン。その過去は謎に包まれていますが、ARØMに魅せられてこの国にやってきたそう。今夜はどんなお客が足を運ぶのでしょう。

次回予告アル
公家サンがセイレンと話をしていたところに、あのファンキー野郎が入店。
そこから話は意外な展開へ・・。
次回、「木箱と記憶の香り」
BARはかく語りき(第2話)
来週も、お楽しみに!