『樽の中には、確かに選び取られた何かが“醸されて”いる。』
このストーリーに寄り添うサウンド
◇語り部/セニョル・スウェルト

樽部屋は、蒸留所の中でいちばん“音”に敏感な場所だ。
誰もいないはずのその空間に足を踏み入れると、空気がこちらの呼吸のリズムを盗みにくる。
樽たちは黙っている。
だが、眠ってなどいない。
木と酒と湿度のあいだに生まれる、微かな鳴り──膨張と収縮の呼吸。
この部屋では、咳払い一つ、余計だ。
だから俺は、ここではいつも無口になる。
……昔、ライブ終わりにARØMバーに立ち寄ったとき、カノルスが言ってた。
「音楽ってのは、このARØMの蒸留と一緒さ。素材を選んで、火を入れて、重ねて、沈黙の中で響かせて抽出するんだ」って。
まったく、詩人め……。
(小さく笑う)
でも、まあ、間違ってはいない。
樽の中には、確かに選び取られた何かが“醸されて”いる。
アルコールだけじゃない。
時間、気配、記憶……あるいは、残響、か。
……残響といえば。
昔、地下のスタジオでやってたバンド練習。
終電を逃した夜、結局またスタジオに戻り壁に寄りかかって、ヤツの歌を聞いてた。
シシマールがギターでふざけて、俺がそれに小言を言って、でも結局笑ってた。
のんきで、オモシロき時代。
あの残響が、今も耳の奥で鳴ってる。
樽が呼吸する音と混じって──
まるで、誰かがまた、ここでセッションを始めようとしているみたいに。
……いやいや。
俺はただの蒸留所の主だ。
音楽じゃ飯は食えん。
イルニェシュタンを口実に、音楽に戻るなら言い訳にもなる・・。なんてな。
さ、仕事に戻るとしよう。
樽たちは、今日も静かに鳴っている。
ストーリーメモ:
月曜日の舞台は、ウィスラン名産のARØM(アルォム)蒸留所。語り手、セニョル・スウェルトは蒸留所の跡取り息子。近年父を亡くし、音楽家の夢を諦めて都会から戻ってきました。音楽はとっくに捨てたはずですが、奇しくも父が生前研究していたというARØM「イルニェシュタン」が、音楽を再び彼のもとに引き寄せます。
スウェルトは寒い国の出身者らしく、ときに痛烈な皮肉屋。ですが、彼の過去が要因となって寂しがり屋な一面も。どこか憎めない男です。
ARØMのブレンドレシピをノート書き留めていると、いつも思い出ポエムになってしまう・・
次回、「ARØM香記より」
セニョル・スウェルトとARØMのある風景(第3話)
来週も、お楽しみに!