『これは──ただの液体ではなく、“音を求めている”。
あるいは、“私の音”がこの液体を求めているのか。』
このストーリーに寄り添うサウンド
◇語り部/ムッシュ・カノルス

この部屋の壁は、無味乾燥なベージュ色。いつでもひんやりとして、のっぺりしている。
石造りの灯台の中。灯台守がかつて住み込んでいた頃に使っていたらしい。
今は無人となっている。宿なしの私にはとてもありがたかった。
ここに私が住みついて、どれほど時が経っただろうか。
もうわすれてしまった。
過去が──なぜか思い出せない。
けれど、音楽だけは──私の内にいつも流れている。
私のアイデンティティは今や、生み出す音楽のほかない。
失った記憶を辿ろうとするが、決まって不思議な“匂い”が脳裏をかすめ、はぐらかされてしまう。
……そう、“匂い”だ。
どこかからあの芳しい香りが漂ってくると、決まって頭の中に音楽が降ってくる。
そうなると、失われた記憶のことなど、どうでもよくなってしまうのだ。
木の皮を焦がしたような、スパイスと果実が混ざったような──
一瞬、誰かに呼ばれた気がするけれど、すぐにその痕跡は跡形もなく消えてしまう。
銀色の霧と、濃い藍のシルエット──。
私は、かつて作曲家だったのだと思う。
日が沈むころ、灯台のてっぺんで古いシンセサイザーをいじるのが習慣になった。
まるで、そうすることが私という存在を証明する手段であるかのように。
最近になって、どうしても頭を離れないメロディがある。
11音でできた、不思議な音階。
とても美しく力強いのに、どこか不穏で、そして哀しい。
まるで…
「失われた何かを憐れむ」かのように響くのだ。
灯台の壁には、かつて誰かが書き残した楽譜の断片が貼られていた。
この「頭を離れないメロディ」はこれを発展させたものだ。
記憶のない私は、なぜかこれだけは思う。
これを、誰かに届けたい──
どうしてもそうしなければならないのだ、と。
昨晩のことだ──
いつものように歌っていら、最上階にある、止まっているはずの灯台の照射装置が、妙な音を発し始めた。
「ジジジジジ……カチッ」
マズいな、誰かが灯台に入って操作しているのか?
恐る恐る音の鳴っている部屋に入った。
いや、誰もいない。
どうやらひとりでに装置が動き出したらしい。
壁の分電盤の小窓のガラスが強い光を放っている。
そして、いつも嗅いでいたあの香り・・。
どうやら、ここから流れてくるようだ。
小窓を開けてみると、ガラスの小瓶があった。
深い藍色に、銀の光を帯びたオイルが入っている。
この灯台の動力は、この液体なのか?
それはそうと、
──それは、明らかに“私の息遣いに反応していた”。
私が試しにシンセの音を鳴らすと、瓶の中の液体がキラリと明滅した。
まるで私が立てる音に呼応しているかのように。
私は震えた。
これは──ただの液体ではない。
これは・・・“音を求めている”。
あるいは、“私の音”がこの液体を求めているのか。
名もなき私が、知らぬうちに生み出した──
YYLNYЁSHUTANT(イルニェシュタン)という響きが、脳裏に降ってきた。
そうだ、イルニェシュタン。
私は、それをどこかで聞いたことがある。
あるいは、それを誰かと一緒に作ったことがある。
だけど、どうしても思い出せない。
その“誰か”の顔が、霞のように滲んでいる。
解っているのは、
銀と藍の香りと11音階。
私は今夜も、真っ暗な海に灯りを灯すように、この灯台で音を鳴らそう。
その音はどこかの誰かに、届いている気がする。
その誰かは──
私自身を呼び戻そうとしているのだろうか?
記憶を失くした、この私を。
To Be Continued…
エピローグサウンド
『第3話:共鳴するもの』に続きます。
ストーリーメモ:
おまちかね!音楽家、ムッシュ・カノルスの登場です。
どうやら彼は何かをきっかけに記憶を失ってしまったようです。それでも、音楽を作ることや歌うことは忘れなかったのは幸いです。
彼は放浪の旅の末、無人となっていた灯台へたどり着き、住み始めます。最低限の居住設備が整っていたため、ぜいたくは言えないにしろ気ままに暮らすことができていました。缶詰などの食料もまだ豊富に残っていましたしね。
人目を避けて暮らしている彼ですが、この灯台では不思議なことがたびたび起きます。建物の中に何かの気配を感じたり、夜明け前に何かの声らしきものを聴くこともあります。そういう不思議な体験をしながらも、他に行くところもないし、彼自身この灯台生活を楽しんでいるようです。ところが、ある日、照射装置が稼働し始めたことで、彼の灯台生活にも変化が訪れます。