奇妙な紳士 /INs°042

まだ薄暗い時間。
宙に浮かんだ紳士が、僕を見下ろしていた。ダボっとしたスーツを身に纏い、つばの大きいシルクハットをかぶってる。少々時代遅れに感じたのは確か。

彼の表情からは何も読み取れず、のっぺりとしたその顔つきは、荒涼とした土地の寒々しさ、よそよそしさを思わせた。彼は黒いステッキを手にしており、それは安物だろうと思ったが、もしかするとあれはあれで高価な代物だったかもしれない。とにかく、僕の趣味ではなかった。

無表情のまま、そのステッキを振り回すと、彼の周辺の空間が歪んでいき、僕を別の世界に誘った。

これは、過去に訪れたことのある、見覚えのある街の風景だった。

多分ここは、下北沢・・いや、吉祥寺だ。
丸井ビルの赤い「〇I〇I」ロゴがネオンの灯りを放っている。南口だ。

街には今とは比べものにもならないほどの、穏やかな空気が流れていた。
行きかう人たちの表情にはまだ、震災やCOVID-19、戦争によってもたらされた陰は宿っていない。大人も子どもも誰もかれもが無邪気に、見えた。

僕は夕闇せまる井の頭公園に向かっていた。右手にはアコースティックギターのケースが握られている。その時初めて会った男に歌を聴かせるために。

彼の名前は思い出せない。仮にFとでも呼んでおこう。

Fは、僕の歌を聴き終わると、いいね、と一言つぶやいたあとしばらく言葉を探し、「君の歌声はU2のボノみたいだ」と言った。それが褒め言葉なのか、僕にはよくわからなかったが、彼の話しぶりからして、U2は彼のフェイバリットのようだった。印象は悪くなさそうだ。
Fはギタリストだというが、ジ・エッジとは似ても似つかないやせっぽちの男だった。来ている服も女性ものだろう。

辺りは暗くなって虫の声が茂みの中からせわしなく聞こえだし、ベンチに座って愛を囁き合うカップルたちが至る所で熱を放っていた。居心地が悪くなった僕らは近くの居酒屋に酒を飲みに行くことにした。

公園を出てほどなくして見つけた多国籍料理を出す居酒屋にはいった。

Fはよく飲む男だった。むしろ、少し飲みすぎる、と思った。
ボトルで注文した安焼酎を水で割りながらグイグイ飲んでいった。
次第に目つきが険しくなり、口調もきつくなってきた。

僕はビールをゆっくり飲みながら、小鉢をつつきつつ、彼の一方的な話を聞いていた。
最初は僕自身も彼のことを知ろうと努力し、なるべく話題を提供することに努めた。

だが、Fは関西人。次第にFのマシンガントークは僕のしゃべる意欲をかすめ取っていった。
気が付けばただ酒を飲み飲み、彼の話に頷くだけになっていた。そして彼は、

「君にはさ、何かが足りないと思うねん。それが何かわかるかぁ?」と言った。

僕はわからないと答えたと、思う。
会ったばかりの男にされる質問ではないはずで、それに動揺してしまい、思考が停止していたというのが本当のところだった。酒も回っていた。僕に足りないもの?・・わからない。

そうしているうちに、彼は言いたいことを言い終わっていた。
僕にはFのいびつにうごめく口だけがクローズアップされた残像みたいなものが残った。

薄い無精ひげを蓄え、虫歯の治療の跡が見えている。

「そろそろ、帰るで」

僕はテーブル席のシートにもたれかかるように、眠ってしまっていた。終電はとっくに行ってしまい、むしろ始発がそろそろ走り始めようかという時間になっていた。
店員はこちらを呆れ顔でチラチラと見てくる。いつの間に寝てしまったんだ・・。
Fは気が付けば焼酎のボトルを3本飲み干していた。

Fの「そろそろ、帰るで」の一言が眠っていた僕の心臓に揺さぶりをかけた。
仕方がない、と上体を起こし、席を立った。

店を出るなりFは、やっぱりもう一件行こうと言い出した。
始発にはまだ時間がある。まだやってる店、知ってんねん。

行きたくはなかった。
財布にはもはや電車に乗るくらいの小銭しか残っていない。
それを口実に断った。

金なら出すよ、いこうよ。

Fはしつこかった。
彼は酔っ払っているのだろう。妙に甘え声で女々しく、僕に嫌われまいとまくしたてる。
大阪からでてきてろくに友人もいないんだ。と彼はよく口にした。

僕は何度も「申し訳ないが帰るよ」と言った。
僕は、バンドメンバーを探しにここまで来たのだった。
こんなところで、こんなことをしていたいわけじゃない。

「そんなツレないこと言わんでもええやん・・」

彼の言葉を無理やり振り払い、吉祥寺駅へと向かった。
清々した気分だ。
その途中、道路わきの2F建て木造アパートの上の部屋からヘタな歌が聴こえてきた。金切り声を上げながらアコースティックギターをジャカジャカ鳴らして・・。

「ボクは死ぬんだ・・きっと」
ジャカジャカジャカ・・。
「ボクわぁ、死ぬんだあ・・きっとう」
ジャカジャカジャカジャン・・。

何度も同じフレーズが繰り返される。
そこまで言うならとどめを刺してやりたい気持ちになった。

・・アコースティックギターだって?

はっとした。

駅に到着するその間際、ギターを居酒屋に忘れてきたことを思い出した。
テーブルの足元のすき間に押し込むように置いていたのだ。しまった。

あのギターはまだローンがたっぷり残っている。失くすわけにはいかない。
不安になった僕は踵を返し走りだしていた。

Fがまた言った。

「君にはさ、何かが足りないと思うねん。それが何かわかるかぁ?」

その言葉が頭の中でリフレインを続けていた。
Fの口の中でねばねばした唾液が糸を引いていた。

「うるさい」

歩道橋を駆け下りていたとき、足を踏み外してしまった。
そして、そこから数メートル落下したらしい。

地面に打ち付けられて、鈍い音を聞いた。足に痛みが走る。
呻くように身をよじり、まだ薄暗い空を仰いだ。

すると、奇妙なあの紳士がゆっくりステッキを振り回しながら僕を見下ろしているのが見えた。
彼はのっぺりとしたその顔で、少し嗤っているように見えた。